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園長のつぶやき 「不適切にもほどがある!」 令和6年3月
『不適切にもほどがある』

間もなくすみれ組さんは卒園です。今さらながら、時の経つ速さには驚かされます。引き続き育徳園の生活が続く子どもたちもいますが、別の道を歩く子どもたちには、人生の一つの大きな分かれ道です。それぞれの道を、悠々と歩いてほしいと願っています。 
 
 「不適切にもほどがある!」という番組が話題になっています。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。1986年(昭和61年)から令和の現代に、中学の体育教員がタイムトラベルし騒動が起きるドラマです。今では考えられませんが、パワハラ、セクハラなど非常識のオンパレード、暴言を吐きちらし、たばこを吸いまくり、手は出る足は出る有様です。その当時も、全てが許容されていた訳ではありませんが、私などにはおなじみの時代です。令和の今その反動もあるし、社会の価値観や家族観も大きく変化しました。子育てにしても、我が子を威丈高に怒るような父親は圧倒的に減りました。「地震、雷、火事、親父」は、かつてこわい物の代表でした。私にとって父親の存在は、正にその通りでした。普段できるだけ父親に、近づかないようにしていました。だから今のやさしいお父さんは、本当にうらやましい限りです。しかし一方、絶対子どもを怒ってはいけないとは考えていません。 
大人の考えを子どもに伝える場合、子ども自らが理解する、あるいは大人が子ども対し、怒る必要のない関わりをするのが理想だと思います。手や足が出るのは問題外ですが、重要なのは誰が怒るかということでしょう。その前提に当事者の子どもと大人の間に、信頼関係があるかどうかです。さらに怒る前には、まず考えなければならない事があると思います。 
 
子どもを怒るとは、大人の信じる行動規範(この時はこうするというルール)を、子どもに強く、時には一方的に知らしめる行動と言えるでしょう。例えば我が子の偏食を解決しようとします。最初に「一口食べてみよか」とうながします。が、聞かないので次は「食べないとテレビはなし」と条件をつけます。それでも食べないと「食べるまでは、そこに座っていなさい」と怒り、ようやく一口食べます。これは極端な例ですが、怒る時はこんな感じではないでしょうか。怒られた結果、一口食べて食わず嫌いが解消する場合もありますが、ぶり返すこともあります。こんな時は、本当の原因が別にあるのかもしれません。もしかすると下が生まれた事による、自分も見てほしいアピール。ひょっとすると成長不安だったり、又は夫婦関係の不安定さ、さらには家族内の自分の位置(3人兄弟の真ん中などにありがち)に、不安を感じている(自分は何でも後回し)…等々、色々な原因が考えられます。このように原因を探り、解決に向け具体的な行動をとるのが、怒る前にすべき事だと思います。 
 
大人と子どもの関係の一つの理想は、怒らずとも通じあえる関係だと思います。しかし、どうしたって怒る時はあります。ただそのあと常に後悔しか残らないのなら、二人の関係を一度見直すのも良いかもしれません。大人も子どもから多くを教えられるのです。   早川 友教
2024/03/02
園長のつぶやき 「親には見えないこと」 令和6年2月
『 親には見えないこと 』 

  今年は正月早々日本を揺るがす大事件が、立て続けに起こりました。犠牲になられた方には、謹んで哀悼の意を表します。又被害に遭われた方は、一日も早く以前の生活が戻ってくるようお祈り申し上げます。  合掌 
 
 さて3学期にもなると、新入で入ってきた子どもも、すっかり園の生活にもなじみ、友だちと元気に遊ぶ姿が見られるようになります。すると今度は、けんかが増えてきます。けんかと言ってもその原因は、年齢等によって大きく違います。一般的に2歳児くらいまでなら、原因の多くは物の取り合いです。誰かがおもちゃを持っている、自分は欲しい、躊躇せず手を伸ばす、まぁこんな感じでしょう。しかし4・5歳児くらいになれば、その様子は変わってきます。コミュニケーション(言葉)の発達と共に、自意識の争いとなってきます。順番を守らない子がいる、それはだめだ守らねば、そして並んだ並んでないの口喧嘩が始まり、挙句の果てには手が出るのです。幼児期はまだ主観が優先です。それ故お互い最初から最後まで、自分が正しく相手は悪いというけんかになります。こんな時大人には是非が明らかでも、子どもは何故謝らなければならないか理解できません。論理ではなく信念に左右されるのです。だからいくら大人が道理を説いても、子どもには通用しません。こんな時のケンカの仲裁には、感性に訴える説得がまず大切だと思います。例えば「泣いてるやろ、たたかれたら痛いねん、だからごめんやな」というような話しかけです。その積み重ねが少しづつ客観性を育み、そのうち論理的な説明も理解できるようになるのです。 
 
子どもが「あの子がたたいた」と言えば、まず親は我が子を気づかうでしょう。親が、子どもの訴えに耳を傾けることは、言うまでもなく大切な事です。しかし、親には見えない子どもの世界があることも、忘れてはならないと思います。子どもも大人同様、子どもだけの人間関係があり、そこにケンカの原因が隠されている場合もあるのです。それを考えないと、どうしても一方的な見方になります。確かにその場面だけを切り取れば、たたいた子が悪いように見えます。しかし実際はたたかれた子に、ケンカの原因がある事も多いのです。 
親にすれば、我が子がいじめられている大変だ!という時でも、実はそうではない場合もあります。それを見分けるのが役割交代です。例えば両者が、たたいたりたたかれたりする、そんな交代関係にあるかないかです。もし交代のない一方的な関係が続くなら、それはいじめと判断できます。ところが実際の子どもの人間関係は、なかなか親には見えません。 
 
子どものケンカはすべきでない、と考えるのは一面的な見方でしょう。成長の過程では、親を悩ます問題は何かにつけあります。
しかしそれに向き合い解決する事が、子どもの本当の成長に繋がるのだと思います。それは親も同じです。
親も子育てを通して、成長するのです。それが本当の意味での、子育てのように思うのです。       早川 友教
2024/02/01
園長のつぶやき 「年頭に際して」 令和6年1月
「 年頭に際して 」 
 
明けましておめでとうございます。皆さんにとってこの一年が、心地よく穏やかに過ごせる年でありますようお祈り申し上げます。 
 
昨今の世の中を見渡すとネット世界は、今や地球のありとあらゆる所へ、くまなく行き渡ろうとしています。これに拍車をかけているのがAI(人工知能)の進化です。今やAIの存在しない社会は、考えられなくなってきました。日に日にあらゆるものが便利になる一方、一体私たちはどんな未来へ向かっているのでしょうか。そんなことを考えるたび、年頭のごあいさつとは裏腹に、心穏やかならざるアナログ人間の辰年年始です。 
 
さてAIが拡大する一方、歯止めをかけられないのが少子化です。国も様々な手をうっているのですが、成果ははかばかしくありません。その大きな原因として、結婚や子どもを望まない人の増加があります。政府の統計によると日本の全世帯数のうち子育て世帯は、なんと1割台なのです。この数字は想像していませんでした。それまでは単純に、5割くらいはあるだろうと思っていました。 
もし子育てにかかる費用をそれ以外に使えば、現状よりはゆとりある生活が可能かもしれません。それに子育てには、頭の痛い問題が数々付いてまわります。反抗期であったり、けんかやいじめ、勉強に進路…等々、問題は山積みです。こんな事を考えれば、少子化の進行もいたしかたないかもしれません。しかしながら、全く違う考えもあるのです。 
 
「苦あれば楽あり」という諺があります。大変な時があっても良い時もある、というような意味でしょう。例えるならば、子育てに感じる不安や煩わしさの裏には、人生の喜びや感動が隠されているのです。子育ては一筋縄ではいきません。ましてや親の思い通りにはなりません。「もっー!」とか「なぜ?!」と思う事もしばしばです。しかしながら我が子の何気ない一言に涙したり、思いもよらない行動に励まされたりする、そんな喜びや感動を噛みしめられるのも又子育てなのです。毎日子どもと関わっていて思います。大人が子どもに与えるものより、子どもからもらうものの方が大きいのではないかと。 
最近子育てと言うと、その大変さばかりが強調されているように感じます。もちろん時代の流れや価値観の変化等もあり、以前より大変さは増しているのかもしれません。しかしだからこそ、我が子の成長を喜び慈しむ時としての子育てに、改めて気付いてほしいと思います(ふり返ればアッと言う間の時間です)。一昔前なら、子育てに意味や損得を求める事はありませんでした。するのが当たり前のことだったからです。しかし今は、それを考えなければならない時代に来ているように思います。 
 
我が子がどんなに愛おしくても、それと反する想いの時は誰にもあります。それを子どもの事を、本当に考えていないからと言うのは幻想に過ぎません。そんな親はどこにもいません。時々によって想いは揺れるのです。しかしながら子育てを、大変ととるか喜びととるか、最後は親の想い次第ではないでしょうか。 
それでは、どうぞ本年も宜しくお願いいたします。 
   
 本年1月1日の能登半島地震で、被災された方たちの一日も早い復興と、犠牲になられた方のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。 合掌 
2024/01/25
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